自己満足って。
だいたい、深い悩みの大きな源は人と人との繋がりの中で生まれるよね。
対、物質相手となるとそこまで大きな悩みが発生せんのにと思った。
例えば、相棒のパソコンの調子が悪いとなると色々調べて改善策を次々と試し、それでも上手くいかなければ、ι(`ロ´)ノムキーとなってぶっ壊したくなるけどいよいよ壊れてしまったら、買い直さなんならんし、いったん落ち着いたら壊れてることも横に置いて、そこに重きを持たずに他の事にも取り組めるし、ほんで『あっそうや壊れとったんや』と相手は壊れてるだけなのでどーこーするかの対応はこっちが決めることになる。
人と人はそうはいかない...と思ってた
対、人間になると相手との何となくの歪みや違和感を感じ取った時さわさわしてきて、あれこれ気になり、底があるかないか分からん沼にズブズブハマっていきそうになる。
人と関われば、喜び悲しみ悔しさ憧れ...
感情の色んなイコライザーが重なり合いながら接していることに気づく
めんどくさいね。
でもその反面救われたり、励みになったり自分を支える大きな存在になったりもする。
でも最近、実はこれらも対応はこっちが決めるでええんでないかと思える。
こっちが決めたことで、救われたり励みになったりは特に変わらんし一緒やなって。
先月、私の父親と妹が遠路はるばる大阪からド田舎に遊びに来てくれた。
温泉と岩盤浴...さらにド田舎の山など自然の雄大さを満喫してもらう事だけが私の一番の目的だった。
私がいいと思って、ただその場に連れて行くだけ。
自然を目に写す、肌で感じる、空気を吸う、嗅ぐ、それをできる環境にただただ、父親と妹の身体に存分に浴びせられればいいと思っただけ。
あとはその時々で何とかすりゃいいと思ってた
実際この歳になってオールするくらい楽しかったしな
以前の私なら色んな準備をして楽しませるためにあれこれ考え、そして反応をとても気にして楽しかったかなとかもうちょいこうすれば良かったかなとか、相手を思って試行錯誤してたと思うけど、現在の私はそれが自分にとって大満足と思ったらそうするという事だけを日頃から選ぶようになっている事に気づいた。
というのもそれにハッキリ気づくのは、父親から後日電話をもらって『お母さんに怒られた~せっかく温泉や岩盤浴連れて行ってもろて体調のこととか感想や感謝の気持ち言うて無かったなぁ』って。
その時にハタと気づいた、しょーじき感想とか感謝とか別に何も求めてないし、実際父や妹が心の中でホンマにつまらんかったなぁと思てても、あららそーなんやと感じる程度と思ってて、乱暴な言い方かも知れないけど私にすれば〝しめしめ〟的なことでなんやったら私自身は大満足の満足を通り越して充実感でいっぱいだった。
自己満足
我がまま
我関せず
自分勝手
何事も〝自分〟私を一番に持ってきたなら、上のような何ともイメージが悪い言葉が並ぶ。
組織内とか協調性を持たなければ成り立たない社会では私を受け入れられる許容範囲という囲いを広げる努力はしようものの、根底には愛情のある自己満足がドカッと座ってる。これこそが最強のメンタルを生むきっかけになりはしないか。
なんか上手く伝わっているかしらね~
ここで言い切りの形で書くことも立派な自己満足成立やね
忖度や思いやり、日本の由々しき作法や心持ちはちゃんとDNAに組み込まれてる、忘れない程度でいいと思う。
相手がどの様に受け取ろうが、相手の自由。
ならば、放つ自由はこちらが決める。
こたろうを見ていればつくづくそう思う。
人間も所詮動物。
私が仕事していようが、かまってもらいたかったら撫でろよと寄ってくるし満足すればどっか行く。
やれやれと思いながらも愛情があるから許す。
人間もそれでいいやん。
思うままに行動したり、自然に任せて委ねとこ。
イヤな出来事も素敵な出来事も、放つ相手が居て、受け取る自分があるから成立してる。
そこに愛情のある相手ならば、受け取り方は私の自由、言い返したかったら言い返し、やり過ごしたかったらやり過ごし、許したかったら許し、許して貰いたかったら謝ってみたいな。
こたろうは猫が嫌いな人には一切近寄らん。
私も本能に任せて、今後出会いたないと思ったら離れるだけ。
100%は無理なら半分の50%採用してみて
随分楽ちんになるからさ。
今日もお読みくださりありがとうございます。
微笑みが増える毎日でありますように♡