興味が有るのか無いのかも、全て自然と宇宙の采配
「日が長くなってきましたね」
大好きな会話のやり取りです
春の足音が聞こえてきそうな日が多くなって来ました。
雪は積もるものの、地熱の温度が上がって来ているのか雪解けが例年になく早いです。
今年はなんだかいつもの冬と違います。
雪が非常に少ないので体力的に助かってますが...
雪が降らないとお仕事に困る人もいれば、多く降ってしまえば死活問題のお年寄りなどおられて様々です。
天候の変動に対して、世の中は温暖化が加速しているとか、実はミニ氷河期の始まりとか様々な意見が有るけど、そういう全ての対局のものに思う事があります。
本当は今日...日頃の現実場面で観察している事や、それに対し感じる事を書こうと思っていたのですが
もう何を書き進めてもなんで?こっちに繋がるんです...
きっと今回はこれを書かない事には次へは勧めないんだと思います
無駄な抵抗はせずw なすがままにと思いましたのでどうかお付き合い願います。
相反するもの
どちらかに片寄りながら対局の中で佇んでいると言うことだけで、それらなは全てなんの制限も無くそこにある。
そしてその全ては空間の中に有る。
対になっているものの、その距離や幅や重さなどはその時その時によって変化していく。
その対になっているものも、特別ではなく自分が手繰り寄せているだけで、必要無いものはそこには現れないし、存在していない。
自然はその例にあてはまらない、そこにある事で役割を果たしている...
現実は常に中立である。
いきなりぶちまけてますが、なんかこんな感じで
どしどし内から外に流れ出る感覚があります。
難しいですよね
伝わるかな…。
人は相反するどちらかをその都度選びそれに近付こうとする。
その間のどの位置にいてもそれらを含んだ全体の中にいることに気づこう。
最善の中に、最悪は一緒にあることを。
その逆も然り。
その存在を知れば、物事はとてもシンプルであることに気づき、大きく揺さぶられる事なく生きられる。
私はこの捉え方が日常にあります。それによって過去にも未来にもその場所は無く、現在地だけがあるんです。
必要な時に思いを馳せる事はありますが、過去にも未来にも自分は居無いことを知り、現在地の様々な両極に振られる事もなく、その時の場所は自分で選び腰を下ろす感じです。
本質のことは誰構わず熱弁して理解を得ようとか今は思っていませんし、到底理解に遠いお話しなので興味も湧かない方もいらっしゃると思います。
でも必要な方には、この文章に自然にたどり着いて読むだろうしそれもそのようになっている宇宙や自然の采配です。
知る必要のある人が、知るためのこの記事なんだと思います。
段階もあり、全くこちらの話について『ちょっとなに言ってんか分かりません』と感じる方はまたどこかでこの記事の内容なり、ここじゃなくともどなたかのお話を見たり聞いたりする時が来るのかも知れません。
こうしてても...
記事の説明や書こうとしているのに、どしどし降りてくる。
これを私なりに伝えてと必要に思い、ちゃんと伝わる人がいるから書いてということと感じ、自分の理解と共に伝えたいと思います。
寒冷、温暖も宇宙の采配で現れている事で、それぞれの現象もどちらにも傾く事がある
手繰りよせたら、(ここがなかなか気づけないところなのかもしれないけど) 最善や最悪も含んだ全体の現れを掴むことになる。
音で言うなら 無音~爆音のボリューム。
感情で言うなら 好き~嫌いのバロメーター。
まで、その傾きなり幅なり重さなり混ざり合いもみんな含んでいる。
例えばお金なら、沢山ある側が最善と思っている人が、そちらが必要と思って居ても全く無い側の最悪も含んだ全体を手繰り寄せていることに気づけていない。
それらは〝ひとつ〟のある一部分である...
最善から最悪までの距離のどこを掴んでいるのか選ぶかは自分で決めている事に気づき
ただそれらは全体のわずかな一部でしか過ぎない。
全体の一部...すなわち森羅万象すべてが一体ということ。
対象のものをシーソーで言うなら『良いギッタン側』と『悪いバッタン側』を含む全部。
シーソーその物を手繰り寄せている事に気づこうよみたいな感じ。
始まりのきっかけも万物それぞれで何処からでも始められ、何処からでも終われる。
自分自身が自分を含む全部の場所を俯瞰で見られるようになりました。
うむ...文章にするのが非常に難しい
例え話はわかりやすい様に後から付け加えて入れていますが、面と向かって話すときっと何が言いたいのか分かって貰えるかもだけど…
何となくでも伝われ~
両極そのものも比べられない。
例えばサッカーを始めたいと思う。
ど素人のサッカー観戦好きから入るのか、
バスケやってましたけど運動神経いいからサッカーやってみますってとこから入るのか
入口はそれぞれ違うし手繰り寄せるシーソーもそれぞれ違う
そして目的地もそれぞれ違う。
音の始まりも無音から始まったのか、爆音が元々あって下がって行ったのか
無音が良い悪い無いように、爆音が良い悪いでも無い。
耳に届くそれぞれ無音が心地良い時、無音が寂しく怖い時のようにそのもの無音自体でも変化するのだから。
小難しい...
例えばスマホから公共のWi-Fiを引っ張って来る時とかBluetoothのイヤフォンに繋ぐ
時、回線自体は空間に常にある。
強い弱いあっても無くなることなく端っこなどもない。
必要で便利なので繋ぎます。
そこからその時必要な情報を、回線を利用しているときは様々な判断を元に、遊んだり 勉強したり 調べたり 楽しんだり、時には怒ったり、悲しんだりもします。
それが必要でない時は繋がりを解きますよね。
しかもあまり意識せずに。
解いたところで回線は消えたわけでは有りません...そこにあるだけ。
簡単に言えばそれとよくにてるかもしれません。
この例えも実はめっちゃ深いです。回線の強弱とか始まりと終わりも全ての縮図のようで例えれば例えるほどゾクゾクしてきます。
これから
人はみんなこうあるべき、これが正しいこれが間違いは本当でしょうか?
主張を良しとしない国の虚像、ひとりひとりが主役であり 〝私〟の在り方を今考える時。
良い悪いひとつをとってみても、一旦立ち止まりどちらに偏ることなく両方を俯瞰で見ることができれば、自分が出会う出来事の本質を見極め、何にも惑わされること無く手繰り寄せられると伝えてきます。
人間の地球への役割のひとつに、自然が自然である存在を保ち、生物の命をつなぐ為に
有限のものの終わりや、新たに生み育み循環させるということが有ります。
その昔には、自然を生かし役割を果たせていたように見えるけど、同時に役割の命そ
のものを軽視し国を奪い合って大きな争いなどで偏っていた。
そして今この時代においてはそんじょそこらで奪い合いや殺し合いは減ったし、平和を主張する国が増えたように見えるけど、同時に文明の発達に伴って自然の存在が故意でなくとも消える方向に進んでいる。
この人生は一度きり。
今の地球、今の日本に生まれて暮らしている意味は、この世に何らかの価値を与えるために存在していること。そして生きているだけで貢献しているし、与えていること。
自分の可能性を様々なかたちで最大限に発揮すること。
人間は忘れがちだけど、いきものは本能にもとずき生きている。
私たちもすでに持っている本能を思い出そう。
感じるまま、書き起こしてみましたが
何が言いたいか理解に繋がったらいいんだけどな...
序盤の内容のまとめ
人は相反するように見えるものの片側だけを見がちだけど、その中に見える
両極は密接に関わりあって繋がっているということ。
後半の内容のまとめ
他人や風潮が作り出す概念に操られないで出来事の本質をとらえる。
私であり、自分であり、個人であり。
色んな概念にとらわれてがんじがらめに生きなくてもいい事がわかってくるよっていうこと。
この二つのテーマが今早く気づいてと言われているようでなりません。
人生を生きずらい人の多さと、地球レベルでの天変地異が密接にあると感じています。
今後人間の役割の基本自体がが地球の行く末にあわせて変化していくのかもしれませんし
地球の存在がなんらかの岐路にいることは間違いなさそうです
私自身はそんなことを踏まえ次の扉を開き進んでいます
本来の自分に出会うために。
ここまでお読みくださりありがとうございます。
両手いっぱいの荷物を分けて持ってくださる方がいらっしゃるようで書いてみましたが
やっぱりとってもすっきりしました。
本当にありがとうございます。