今を生きる。私の中の自分に出会う

いろとりどりの気持ちたちを言葉にのせて。

ゆるりゆるりと参りましょうか。

そういえば、なんか息苦しいような時折ギューって締め付けられるような、呼吸が浅くて息をするの忘れてるようなあの感じ...圧迫感が無くなっている。あんなに常に悩まされてたはずだったのに

ひと昔前の自分は、不整脈や動悸、不明な不安感が常に傍にいた。

役2年前、いよいよ不整脈で脈が飛びに飛んで痛みすら感じたので『マジで止まってしまうぅ怖いんですけど!』と大きな病院に駆け込み、心臓エコーを “急” ハンコを押されたカルテ持ってソッコーでやってもらう。

結果...        異常無し。

ホッとしたけど、じゃあコレはいったい何んなんよって話になる訳で...

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普段から明るくプラス思考のわたし。心なんて弱いわけないから、これは心身から来てる症状では無いと自己判断して内科に行ったから『自律神経失調症』という病名がつき、異常が見当たらんので経過観察で終わる。

ほらな、いっつもこんな感じやん。

モーシワケゴザイマセン、オテスウオカケシマシタ!となる。

振り返れば、症状はあるものの調べ尽くして結局最後は原因不明ってこと何回かあったなぁ。

この不安って、もしや心から来てるのではないかと自ら心療内科に行ってたなら、あんたは立派な心の病でっせと診断されてたと思う。

 

頑張って、

努力して、

力振り絞って、

我慢して、

歯を食いしばって、

痛みに耐えて、

ビシッとして、

ナヨナヨすなっ

低学年の頃から竹刀持った先生にしばかれまくりのビビりまくりの幼少期から青年期。

私だけでなく世の中全体がそのような『力』が入っていた時代だった。それが当然でOKで当たり前だった。

ほれ、その時代を吉川晃司さんもガタイ良いのに、さらに肩パットのスーツきてたし、世の中肩パットだらけでファッションまで『力』が入ってたわ。

『力』の時代を象徴してた。

逆に覚えてるかなぁ井上陽水さん車のCMやったか『くうねるあそぶ』って流れてたけど、けしからんとかってクレームが殺到したとか。緩さを許さないそんな時代だったよね...

しかし肩パットってどこいったんやろね~

 

いかん

横道それた。

 

その頃の私は、バリバリ反抗期でグレかかっていたものの『ごちそうさまでした』とかいうタイプの不良で‪w 本気の抵抗は出来ず、気が付くと

頑張ると達成できる。

努力するから道は開く。

力振り絞って、栄光を掴む。

我慢して耐えてこそ達成した喜びを感じられる。

歯を食いしばって戦う。

痛みに耐えて勝ち取る。

ビシッとして不定愁訴を跳ね除ける

ナヨナヨしてれば隙を与える

そんな『力ずく』の概念の藁の一本一本が、重なり合って隙間が埋められていき見事に潜在意識の上に積もって重い蓋になり、ピッタリ閉まっていた。

潜在意識の奥深い場所から、本当の自分は様々なアドバイスやメッセージを、がんじ絡めの私にお届けに上がりたいんやけど、蓋が強固すぎて開きませんわって届けるの辞めるから気づけなかったのかも。

 

いやそれとも振り返ればその様な経験値を積むために自分で選んで喜んでやってて潜在意識の深いところの私もじぃーっと黙って見届けてたかも知れない。

様々な苦の点がいつか線となって自分の前に現れ、あぁあの時の苦はこの為のものだったと、ちゃんと掴める時が来るために。

 

意味分かりますかねぇ...

伝わる方には伝わると思いこのまま続けます。

文章にすると『意識の向こう』は伝わりづらいかもしれませんがこのまま何故『ゆるりゆるりと参る』に重きを置いたかと言うことに触れたいと思います。

 

力が少しずつ抜けて脱力にだんだん移行して行く世の中の途中の象徴が『ゆとり教育』かもしれん。

でも、教育する側の先生方はガッチガチに『力』入った人達だもん結局本物のゆとりに至ったのだろうか。

でもそうは言えども、その力をいくらかは緩めながら育った人達が教育者になり現在の学校現場で活躍されてるのではないのかな。

そのおかげで緩んだ現実社会も昔より選べるようになったと感じてます。

感想などは割愛しますが、思うところは溢れるほどでまた別に記してみたいと思います。

 

で、結局最後は何が言いたいのかと言うと

力が抜けていると問題が問題でなくなってくるという事

身をもって知った事です。

 

常に自分と他者と分かれて

上下

勝ち負け

優劣

善悪

正しい間違い

結局この偏りに振り回され悩まされる事に気が付く。

常にファイティングポーズを自分の外に向けて自分を偏りから守るようにガードを固めて、肩に力を入れて『こう来たらこう!』『そう来たならこう!』といつでも太刀打ち出来るように身体も緊張させ、心も緊張していた。

拳の上から世間を眺めていた今までの『力』に対して、そろそろガードを下げて少し緩めてみませんか。

 

ガードを下げる

じゃどーすりゃいいのか...

自分が育つ過程で、親から先生から友達からテレビからネットから様々な刷り込みや聞いた事学んだ事を自分に採用してきた。

それが概念になって自分に張り付いてる。

自分のルールは信実でないかもしれん。

自分のルールというフィルターを通して世の中みてるかもしれへん。

それらは思い込みちゃうか?

とか。

 

必要なルールか要らないルールかを見極めて

『べき』『~ればならない』などの概念を一本一本取り除くと、強固だった蓋なりフィルターに隙間ができ、やがて穴が空いて本当の自分の声に気づいていける。

自分はどんな事に『べき』と思ってるのか発見しずらい時には、過去に誰かとやり取りしたLINEやメールの文面から探して見るといいかも知れない。

そしてそれらが外れて来るとひらめきや直感を感じられるようになる。これホント

私はこれらをヒントにしまくって次々に起こったり繋がったりすることを楽しんで過ごしています。

最近では、『なりわい』って言葉が聞こえたり(聞こえるというか響くというか...)

聞いた事あるようなないような言葉で(なんかエロっぽいなぁぐらいの知識で恥ずかしい)ちゃんとした意味がわからんかったから調べたら『生業』と書くみたいで生きて行くための仕事という意味らしく、現在長年やってきた今の仕事よりやりたい仕事がどうしても気になっている状態で聞こえできたので、手探りだけど初めてみようと決心がつきました。

そしてそれはきっと上手く行くことになります。本当の心にごまかしが無くなるから『~かもしれない...』とか『~になったらどうしよう...』と心配しているように見えて、ただ恐れから守るために動かない自分に気づく瞬間がある。

ゆるりと生きて行けば、そういう不安要素も気が付くと遠ざかっていってるでしょ...って

今日も潜在意識のもっと奥からのひろーい場所から本当の自分からの声が聞こえてくる。

 

 

今日もお読みくださりありがとうございます

感謝しています.*・゚ .゚・*.